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移植の歴史

20000年6月、内分泌外科学会ランチオンセッション
※約45分の口演をまとめたものです。

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約200年前、1804年10月13日、華岡青洲が朝鮮アサガオを用いた全身麻酔により乳癌の摘出に成功した。この業績は残念ながら、世界に広がることはなかった。同じような時代に活躍した人のなかに、Edward Jenner (1749~1823)もいる。彼は1796年5月14日に種痘の人体実験を行っている。種痘は瞬く間に世界に広がり、日本でも1850年代には各地で行われていた。そして、1980年WHOは種痘の全世界からの撲滅を宣言した。また、約200年前に活躍した音楽家のひとりはLudwig van Beethoven (1779~1827) である。かれは華岡青洲がはじめての全身麻酔に成功した年に、交響曲第3番の非公式初演を行った。この交響曲の別名は“英雄”であり、これはNapoleon Bonapart (1760~1835) に最初は捧げられたものである。Napoleonは数多くの戦争を行っているが、その一つが Nelson 提督(1758~1805) 率いるイギリス海軍とのトラファルガーの海戦 (1805) である。この海戦でNelson は戦死するも、イギリスは勝利し、ナポレオンの征服を逃れることができた。Nelson はロンドンのトラファルガー広場の真ん中にそびえ立つ塔の上に今でもマントを羽織って威厳を持ち遙か遠くの大陸を眺めている。そのNelson は1797年のテネリフの海戦で右手を失っている。この時代の戦闘は、歩兵・騎兵・砲兵が主体のもので、砲兵といっても彼らが放つ大砲は飛ぶというよりも、地面を転がると言った方が正しいものであったようだ。つまり、現在の重火器のように、着弾した後に爆発などしないのである。であるから、大砲による傷も、つまりは歩兵・騎兵の戦闘による傷も、刺創・切創・挫創がメインである。戦場外科医の仕事は、四肢の切断が主なものであった。抗生剤や消毒の概念が存在しない時代では、化膿創を敗血症となる前に切除することが最も大切な救命手段であった。もちろん無麻酔でおこなわれる。瞬時に切断したあとは焼き小手にて患部を焼却処置し、止血と感染の防止をはかったことが多かった。この戦場外科医の仕事は中世からほとんどの進歩をみていない。この外科学が近代外科に変身するには、全身麻酔・消毒法・抗生剤の出現を待たなければならない。

 

華岡青洲からおくれること約40年、1846年10月16日 William Morton (1819~1868) はマサチューセッツ総合病院において、公開でのエーテルによる全身麻酔を披露し、左下顎腫瘍の摘出術を無痛のうちに終了させた。その後、James Simpson (1811~1870) が、1853年に大英帝国のビクトリア女王の出産にクロロホルムを使用し、両者の活躍により全身麻酔は急速に欧米に普及した。

 

消毒法の進歩はと言うと、スコットランドの外科医Joseph Lister (1827~1912) によるところが多い。彼の時代には外科の処置後に膿がでることは当たり前で、良い排膿が患者の予後を決めていた。かれが当時の常識に挑戦したのが、石炭酸の散布による消毒であった。かれは産業革命時に多量に必要とされた石炭から得られる石炭酸を患者・手術道具・術者に散布することを試みた。その結果、必発と考えられていた術後の膿瘍が激減したのである。

 

かれが石炭酸による消毒法を思いつくに至った背景にはひとりのフランス人がいる。その名は Louis Pasteur (1822~1895)。Jenner, Flemmingと並び賞される免疫学の3大偉人である。Pasteurは1865年頃病原体説を唱えた。それまでは病気は自然に体の内部から生じるとする自然発生説が信じられていたが、かれは病原体が多くの疾患を引き起こすという概念を提唱し、証明した。細菌の発見、狂犬病ワクチンの開発、低温殺菌法など数々の業績を残した。

 

余談ではあるが、北里柴三郎 (1852~1931) は1885年から1892年にベルリンのコッホ研究所に留学し、Behring (1854~1917) と伴に抗血清療法を開発した。Beringは1901年に第一回のノーベル賞をひとりで受賞した。しかし、欧米の免疫の教科書には北里とBehringによる業績と記載されている。そのころの日本は世界的な地位が低く、北里は選から外れたものと思われる。

 

全身麻酔の普及に伴い、外科医の領域は、創処置・切断の外科から近代外科への道を歩むことになる。1881年、胃切除が Theodor Billroth (1829~1894) のグループにより成功し、今日でも行われているBillrothのI法・II法ともその年に施行されている。

 

時代は20世紀に入る。1904年5月27日、日露戦争における日本海海戦が行われた。連合艦隊から大本営への打電は“敵艦隊見ユトノ、警報ニ接シ、連合艦隊ハ、直ニ出動之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ”と言うものであった。参謀秋山真之による名文である。日本海海戦では勝利し、日露戦争をなんとか引き分けのかたちにもちこみ、ロシアと講和を結ぶも、これを境に日本は軍国主義路線をすすむことになる。

 

日露戦争に前後して、移植外科手術は幕を開ける。1902年 Emerich Ullmann (1861~1937) は犬の腎臓を頚部に移植し、尿の排泄を観察した。つまり、この時期にはすでに血管・尿管の吻合が可能であり、手術手技的には腎臓移植は可能となっていた。そして、自己の腎臓は場所を移されても機能することが証明されたのである。

 

血管吻合を可能にし、その他の分野でも数多くの業績を残した外科医は Alex Carrel (1873~1944) であり、3点支持による血管吻合法の開発にて1912年にノーベル賞を受賞した。

 

そして、1906年にはフランスのリヨンでMathieu Jaboulay (1860~1913) により最初のヒトに対する腎臓移植が施行された。このときは異種動物のブタとヤギの腎臓がヒトに移植された。ヒトにおける最初の同種移植(他人の腎臓を用いる)は、1933年にウクライナの外科医、Yu. Yu. Voronoy (1895~1961) により行われた。しかしながら、自己の臓器は移植後生着するが、自己以外の臓器はすべて拒絶されていた。

 

ヒトにおける移植の成功第一例は、1954年12月23日にボストンでJoseph Murray (1919~)らによって行われた一卵性双生児の間での腎臓移植である。

 

では、なにが自己と非自己を分けているのか。自己の臓器および一卵性双生児からの臓器に対しては移植は成功するため、遺伝子が同一であれば拒絶反応は起こらないと考えられた。そこで、次の疑問は遺伝子の違いは一様に拒絶反応を誘導するのか。または、特に拒絶反応にとって重要な遺伝子が存在するのかということである。

 

この答えを出すために、George Snell (1903~1996), Baruj Benacerraf (1920~), Jean Dausset (1916~) らによって、同種間(おもにマウスを用いて)での腫瘍移植や皮膚移植の免疫遺伝学的解析が行われ、同種移植において際立って強い抗原性を示す主要組織適合性抗原(Major histocompatibility antigens)の存在が明らかにされた。この主要組織適合性抗原の遺伝子群はヒトでは第6染色体に、マウスでは第17染色体上に存在することが判明した。彼ら3人は1980年にノーベル賞を受賞した。

 

そして、この主要組織適合性複合体 (Major histocompatibility complex; MHC)の本態が、Rolf Zinkernagel (1944~) と Peter Doherty (1940~) らの研究で、蛋白抗原由来のペプチド断片をT細胞に対して提示する抗原提示分子であることが判明した。つまり、主要組織適合性複合体はT細胞の活性化にとっては必須のものであったのである。彼らは1996年にノーベル賞を受賞している。ノーベル賞がひとつの事項に対して2度にわたり授与されることは通常はないため、主要組織適合性複合体の異なった意味での重要性が理解できるであろう。

 

主要組織適合抗原の解説にて、最近の知見にまで進んだはなしは、第2次世界大戦前の抗生剤の開発にもどる。Alexander Fleming (1881~1955) は1928年に青かびがぶどう球菌の繁殖を抑制することを発見した。これがペニシリンである。ペニシリンの大量生産法は1940年に Howard Florey (1898~1968)と Ernst Chain (1906~1979)により開発され、第2次大戦にペニシリンは供給された。この抗生剤の開発により、近代外科の土台は、全身麻酔法・消毒法を含めて達成されたことになる。彼ら3人も、1945年にノーベル賞を受賞している。

 

時代はまたもどる。1904年より始まった臓器移植はたくさんの臨床・実験においてことごとく失敗に終わっていた。つまり、自己の臓器は受け入れられるが、他人の臓器は拒絶されるということはあらかじめ定められたことであり、そのドグマを撃ち破ることは不可能との認識が広まっていた。その常識を翻えす実験がDavid Owen (1915~) により発表された。それは牛では胎盤は共有していない(一卵性双生児ではない)が、二つの胎盤が融合している双子 (dizygotic twin) が時々認められ、それらの牛が成長すると、お互いの間での免疫反応が生じないことが判明した。つまり、胎盤内で血液が混合することで、通常は拒絶反応が生じるであろう2頭のあいだで、お互いに対して、免疫寛容が誘導されたことを意味する。

 

時代は第二次世界大戦を迎えていた。戦闘は中世の合戦から、重火器を主体とした近代戦になっていた。砲弾は遠くに飛び、着弾後は爆発をした。その結果、多くの兵隊・非戦闘員が熱傷にさらされた。大英帝国は第二次大戦後に熱傷患者の命を救うべく、皮膚移植に巨大な研究費を注ぎ込んだ。そして、そのボスが Sir Peter Medawar (1925~1987) である。かれは、Owen の観察に注目し新しい実験を行った。胎児および新生児のA系のマウスにB系のマウスの血液を投与すると、成熟期に達したA系マウスは、当然拒絶されると考えられていたB系のマウスの皮膚移植片を受け入れたのである。つまり、免疫寛容は後天的に修飾可能であることを証明したのである。かれは1960年にノーベル賞を受賞している。

 

この実験と、一卵性双生児間での腎移植の成功に励まされて、1950年代には再び、多くの移植に関する生体実験が行われた。しかしながら、ほとんどが失敗に終わった。これは免疫抑制剤を有効に使用しなかったためで、1958年のアザチオプリンの導入により、1960年代には腎移植、肝移植の成功例が発表されることになる。その後のサイクロスポリンの開発は1980年代になり、心移植、肺移植を可能とし、また従来の移植手術の成績を格段に上昇させた。

 

現在では四肢の移植も可能となり、また心・肝・腎移植においては、1年後の臓器移植の成功率は90%以上、3年で70%以上にも及んでいる。

 

一方で、免疫抑制剤の投与は年余におよび、その長期にわたる投与は、心血管障害、感染症や悪性腫瘍の誘導などの副作用を招き、また慢性拒絶反応は未だに解決されていない問題である。

 

それらを防止し、更なる移植成績の向上を導くには、特異的免疫寛容の誘導がひとつの解決策である。これはドナーに対する免疫反応のみを特異的に抑制しようとするものである。現在の動物実験においては、抗CD4抗体、抗CD80/CD86抗体 (CTLA4Igを含む)、抗CD40L抗体などで特異的免疫寛容の状態が誘導されているが、臨床応用にはもう少し時間が必要と思われる。

 

しかしながら、短期間の免疫系の修飾により、その後は一切の免疫抑制剤の投与を必要としない特異的免疫寛容が誘導されれば、現在の臓器移植の成績は格段に上昇し、また現在では副作用のためにためらわれている内分泌臓器の移植も実用化される可能性がある。

 

また、免疫抑制剤を必要としない移植を可能とする方法のひとつは、一卵性双生児の臓器を使用することである。現在ではクローン羊ドリーに代表されるクローン技術にて、自分の複製の製造が可能となったが、その臓器の使用は倫理的には全く不可能である。

 

一方、臓器をつくると言う観点からは、胎児の胚性幹細胞から臓器を誘導する技術も進んでいる。しかしながら、この技術の進歩は、移植臓器の不足は解消するものの、所詮他人由来の臓器であるために免疫抑制剤の投与を要する。だが、胎児の胚性幹細胞から核を抜き出し、レシピエントの核を挿入し、臓器を再生すれば、出来上がった臓器は一卵性双生児の臓器と同じため、免疫抑制は全く不要である。再生医療に関しては、構築を必要とする心・肺・腎などはさらなる年月を要するであろうが、細胞単位で機能できる内分泌臓器などの再生は近い将来に可能と考える。

 

19世紀の初頭に華岡青洲が朝鮮アサガオによる全身麻酔を成功させた。19世紀の半ばには、エーテル・クロロホルムによる全身麻酔が欧米に浸透した。そして、消毒法と抗生剤の開発が近代外科への土台を作る。そして20世紀の初頭に始まった移植医療への挑戦は20世紀半ばに幕を開け、そして着実に進歩している。21世紀には特異的免疫寛容の誘導が現実的となり、そして免疫抑制剤を必要としない再生医療に基づく移植片の作製が可能となるであろう。その時期には現在では、副作用のために躊躇されている内分泌組織の移植もより現実的なものとなるであろう。

 

200年にわたる先人の多大な努力と成果を手短に書き並べた。

 

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